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伊勢崎・多喜二祭「多喜二奪還事件」のページ
ブログ紹介
1931年(昭和6年)9月6日小林多喜二が伊勢崎に来ました。文芸講話会の講師で来たのに、講師陣は事前に検束されたのです。会場に集まった満員の聴衆は「多喜二を還せ!」と伊勢崎警察署に抗議に詰めかけ、とうとう多喜二等の奪還に成功しました。事件から77年の時を経て、その全貌が初めて明らかとなります。
本サイトはこちら http://geocities.yahoo.co.jp/gl/papasese2002
多喜二奪還事件研究室は http://www.takijidakkan.com/
伊勢崎・多喜二祭の講演動画は http://jp.youtube.com/TAKIJIDAKKAN よろしく!
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旧菊池敏清宅の復元平面図を公開します。

2009/11/06 18:40
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第2回伊勢崎・多喜二祭で群馬県文化財研究会の桑原稔会長より7月19日に実施された旧菊池敏清家の古民家調査の概要を報告していただきました。その時のレジメです。写真の左側がレジメの表で、右側上がレジメ裏です。右下はイメージしやすいように添えてみました。次に解説を活字化しました。
群馬県文化財研究会のHPはhttp://josyurekisi.hp.infoseek.co.jp/gunbunken/gunbunken.htm

 旧菊池敏清家
*所在地=群馬県伊勢崎市北千木町2054
*所有者=(非表示にしてあります。)
*建築形式=田宇型切り妻造り瓦葺総二階建平入
*建築年代=明治初年頃
              建 築 の 解 説   
 現存する旧菊地敏清は、現在居住者の居ない空き家になっている。当遺構の外観の形式は、「切り妻造り瓦葺総二階建て平入」と称するもので、屋根棟に「櫓(やぐら)」を突き上げ、典型的な養蚕農家の外観を示している。
 建造当初の平面図(復原平面図)を示すと、別図(写真左下)のようであり規模は、間口10間(62.28尺・約18.87m)、奥行5.5間(33.10尺・約10.03m)であり、典型的な「田字型間取り」の平面を示している。田字型間取りの民家は8畳の4室を丁度「田字」の形に配置したもので、幕末から明治時代に流行した民家の形式である。なお、この建物は田字の間取りを囲うように表側から、西側及び裏側の3方に「エンガワ」や「ロウカ」を巡らしている。
 これは、養蚕の飼育が最高潮に達すると、8畳の4室の建具を総て取り除き、ここに蚕棚を組んでもっぱら「蚕様」の部屋になったのである。そして人間は、蚕棚の間に寝たのであった。このような時、人間の移動をスムースにするために、「エンガワ」や「ロウカ」及び「ウラエン」は便利であった。また、このような床上の通路は、養蚕の作業を行う時にも大変便利であった。従って、縁側を床上空間の3方に巡らす民家は、棟上の櫓と共に発達した養蚕農家の形式を示すものである。なお、土間の表側の隅部には、ウマヤも存在した痕跡を残している。ウマヤの奥は「オコンマヤ(奥馬屋)」と称し、普段家族の食べる米俵や味噌樽及び、醤油樽などを設置した場所であった。
 当遺構は、建築の各種特徴などから推察して、明治10年頃の姿を良く伝えているものと考えられる。改造も少なく、当時の典型的な養蚕農家の形式を伝える遺構として貴重である。特に昭和6年9月6日、当時伊勢崎で予定していた小林多喜二らの文化講演会の前に、当遺構内で開いた茶話会が無届集会とみなされ、多喜二ら講師陣と菊池敏清さんらが伊勢崎警察署に検挙されたという、歴史的な現場でもあるのです。当遺構は、こうした歴史も秘めていることから、明治初期頃から昭和戦前の生きた歴史的資料ともいえるのである。
 このような理由により近い将来、次代に引き継ぐ歴史的遺産として、自治体の手によって何らかの保護対策が計られることを、心から希望する次第であります。
                   平成21年9月6日
                   群馬県文化財研究会
                   会 長 桑 原 稔
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ノーマ・フィールド先生と東京の多喜二ゆかりの地を歩く

2009/10/27 15:19
岩波新書の『小林多喜二』を執筆したシカゴ大学のノーマ・フィールド先生が来日なさっており、10月25日午後に多喜二ゆかりの東京散歩を行うとの連絡が元多喜二ライブラリー(旧白樺文学館)の佐藤三郎氏からあり、伊勢崎の「多喜二奪還事件」に興味も持っているというので、急きょ事務局の私も参加させて頂きました。ノーマ先生には資料集を渡せました。左がノーマ・フィールド先生です。まず五反田駅に集合し、「党生活者」の舞台となった藤倉工業跡地を見ました。佐藤氏の説明は詳しいものでした。当時パラシュートや毒ガスマスクを作っていた工場はビル街に変身していますが、光ファイバー等でNTTと深い関係を持ち、跡地の一角にNTTビルがあります。それ以上に、今も自衛隊にパラシュートを供給する軍事企業として繁栄しているそうです。多喜二の視点の確かさを実感できました。写真左側のビルが跡地内にある藤倉グループのビルの一つです。写真右側は新橋駅近くのビルですが、多喜二が東京で活動していた頃の、共産党の非公然事務所になっていた建物だということです。新しいビル群の中に当時そのままの姿を残しています。その後、銀座周辺で多喜二と関わった人々に関連する場所をめぐり、最後に多喜二を虐殺した築地警察署の前に着きました。既に暗くなってしまいました。その時の写真が一番右です。
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新ぐんま掲載の記事と「『多喜二奪還事件』の文学的前提」の反響について

2009/10/12 23:39
10月1日付「新ぐんま」に掲載された伊勢崎・多喜二祭の記事です。「『多喜二奪還事件』の文学的前提」の広告も載せて頂きました。9月27日に日刊赤旗の書評コーナーのレーダーにも載りました。ほぼ2週間1日1冊くらい注文が入りました。20冊くらいが売れました。会のゆうちょ口座は作ってありましたが、郵便振替でという希望が多かったので、至急手続きをして、払込用紙でできるようになりました。注文があった地域は、大阪府・千葉県・埼玉県・北海道・山形県・東京都・秋田県・岩手県・兵庫県・群馬県でした。大阪の人のコメントを今日見ました。450冊販売用で、150冊は売れました。本屋や実行委員に150冊出ています。手元に150冊くらいあります。今回初めて「本」を作り、売っているわけですが、自費出版で本を売るというのは、大変なんだなということを実感しています。私の大学の時の指導教官だったH先生は、いまどき本を売って調査費用なんかを出そうとするのは、方針がおかしいぞと言いながらカンパを寄せてくれました。本当に有り難かったですね。
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「新かながわ」9月20日号に蛎崎澄子「伊勢崎多喜二奪還事件」が掲載!

2009/10/02 16:00
「新かながわ」9月20日号に蛎崎澄子さんの書いた「伊勢崎多喜二奪還事件」が載りました。蛎崎さんは、多喜二が逗留した七沢温泉の福元館をつきとめたので有名です。また、伊勢崎の事件が、多喜二の年譜にないことに疑問を持ち、何度も群馬に足を運び、事件がよみがえるのに大きく貢献しました。私も、蛎崎さんの熱意に打たれて、多喜二祭に関わるようになりました。ただ本文中の5段目の「茂呂地区」は「茂呂地区の北千木町」に置き換えて下さい。ここでいう共産党議員は二人です。その一人は、奪還事件で活躍する菊池盛男氏です。50年問題の困難の中で1951年に初の共産党議席を獲得しました。3期12年議席を守りました。もう一人が伊勢崎・多喜二祭実行委員会の代表である八田利重(りじゅう)氏です。1967年に初当選してから、県議に挑戦した時期を除いて、8期31年(合併で任期3年あり)伊勢崎市議をつとめました。
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紙芝居風「多喜二奪還事件」物語を掲載!

2009/09/19 16:09
第2回伊勢崎・多喜二祭の中で大判紙芝居を実演しました。プログラムの中には、縮小したA4版裏表にしたものを入れました。その後見つかった資料内容も入れて、作り直しましたので、公開します。それで作成日が9月6日以降になっています。
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「『多喜二奪還事件』の文学的前提」販売始まる、好評に100冊超える!

2009/09/12 22:17
実行委員会の事務局長の長谷田直之氏が編集した、「『多喜二奪還事件』の歴史的前提―群馬プロレタリア文学の発見とその展開」が会場の書籍コーナーで飛ぶように売れました。どの辺に特徴があるのか、編集した長谷田氏に聞きました。
*まず、どういう本なのですか?
多喜二達ナップ作家を講演会に招いたグループは、1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて『上毛大衆』という雑誌を出して、プロレタリア文学運動を展開していたグループであったことを明らかにしました。『群馬戦線』『上毛大衆』の文芸欄とプロレタリア詩歌集『全線』をすべて集録した文学資料集です。
*資料の他に解説編があるそうですが、ポイントはどの辺りですか。
戦前の活動は、治安維持法の弾圧下で展開され、日本共産党は非合法であった上に、地方では強い反共意識も加わり、複雑な展開をしています。ナップ作家を呼んだグループは社会民衆党という右派の無産政党に属しながら、プロレタリア文学運動の展開の中で急速に左傾化し、共産党に近づいていきました。また、ナップ作家を呼んだ文芸講演会を文戦派と戦旗派の対立の中でどういう意味をもつのか考えたところも新しい視点だったと思います。
*では最後に特別編を三つ付け加えたそうですが、簡単に紹介して下さい。
一つは、菊池敏清家の調査で敏清氏の未発表原稿等多数がみつかり、その中から「奪還事件」前後の作品で『上毛大衆』に投稿したのに、発禁で載らなかった「夜」を原稿のまま載せました。『戦旗』支局グループの敏清氏と『上毛大衆』との直接的関わりを示しており、現地勢力の今後の分析に重要になります。二つ目は、ナップの機関誌『ナップ』の編集後記に「奪還事件」余波の記述を発見したことです。事件がナップ攻撃に相当歪曲して利用されたことがわかり、その批判を群馬出身の伊藤信吉がしていました。この点も今後の「奪還事件」を考えていく上では、重要な課題になるでしょう。三つ目は、多喜二の「飴玉闘争」が七月に「オルグ」の追加として書かれたものと十二月に『アサヒグラフ』に書いたのと二種類、存在していることを指摘し、後者の叙述に「奪還事件」の経験が反映している可能性を指摘したものです。この可能性の指摘によって「奪還事件」研究は多喜二研究と大きな接点を持つことになりました。多喜二自身の文章で「奪還事件」とのつながりを初めて指摘したもので、今後議論を呼ぶでしょう。
*どこで購入できますか?
次の事務局に連絡して下さい。FAX0270-25-1130、携帯070-5458-7225、住所372-0051、群馬県伊勢崎市八幡町44、伊勢崎・多喜二祭実行委員会、長谷田直之、一冊税込みで1050円、送料代180円を足して合計1230円になります。連絡してから、ゆうちょ口座(記号10420 番号174441、伊勢崎多喜二祭実行委員会)にお振り込み下さい。印刷は初版500冊なのでお早めにお願い致します。群馬県では、前橋の煥乎堂と紀伊國屋書店前橋店に置いてもらいました。
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第2回伊勢崎・多喜二祭、成功、ありがとうございました

2009/09/09 10:19
 9月6日群馬県伊勢崎市において、第2回伊勢崎・多喜二祭が開催されました。午前11時より、多喜二が立ち寄り、検束もされた故菊池敏清宅で現地説明会が開かれ、約50人が参加しました。敏清氏の長女の規子さん、三女の利根子さんからの挨拶、八田利重代表の説明に続き、群馬県文化財研究会会長の桑原稔氏から7月19日に行った旧菊池敏清家調査の概要が報告され、質疑応答も行われました。参加者は多喜二が茶話会で語った時に背にしたという床柱に見入っていました。すぐ近くにある共産党伊勢崎佐波地区委員会事務所の会議室を借りて、実行委員会では希望者に茗荷の卵入り味噌汁の試食会を行いました。
 午後2時より伊勢崎市文化会館大会議室で会場一杯の160人余の参加で記念講演会が開かれました。会では、八田利重代表の挨拶に続き、社会科学研究者の長久理嗣氏が祝辞を述べ、奪還事件の顕彰運動が始まったことで多喜二の人生の一ページが豊かになったと会の運動を励ましました。次に、奪還事件の際に活躍した関係者の家族や県内研究者が紹介され、大きな拍手に包まれました。次に事務局の用意した大判の多喜二奪還紙芝居が披露されました。全国の多喜二祭の状況を藤田廣登氏が述べ、桑原稔氏が調査結果による菊池敏清宅の保存の必要性を訴えました。
 次いで記念講演に立った土井大助氏は、自らが82歳になったことを述べて、演題に入りました。土井氏はこれまでの多喜二研究の中で明らかにされてきた多喜二の人柄や思想的な発展をユーモアを交えながら話しました。多喜二と親交のあった手塚英孝氏や江口渙氏から聞いたエピソードなども披露し、また多喜二文学の一節なども紹介し、時には会場は大きな笑いに包まれました。会は無事4時30分に終了しました。
 高3で参加した女子高生は、「楽しい話が多く、聞いていておもしろかった。多喜二さんに親しみが持てた。」と語っていました。またある参加者は、「『蟹工船』ブームが起きた理由に多喜二そのもの生きる姿勢への共感があったと実感した。改めて多喜二全集を読み直したい。」と話してくれました。
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新刊の特別編3に「二つの『飴玉闘争』と『奪還事件』」を掲載!

2009/09/01 23:13
ブログ21世紀の小林多喜二の手紙で、当伊勢崎・多喜二祭を紹介して頂いた上に、貴重なアドバイスを頂き、ありがとうございました。
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/7dd2151b146fcee33338deae0bb7aeec
このブログで紹介された大月源二「多喜二と私」(『北方文芸』1968年3月号)と多喜二「監房随筆」にヒントを得て、書きました。まだ本は製本から来ませんが、フライングして公表しましょう。

 多喜二の「飴玉闘争」は二つあるというのは常識なのだろうか?一つは『小林多喜二全集・第三巻』(一九八二年)にあり、末尾に(一九三一・七・四)とある。もう一つは『 同 全集・第五巻』の「監房随筆」の二つのエピソードのうちの一つで、「飴玉闘争」とエピソード名が付けられている。末尾に(一九三一・一二・一四)とある。
この二つの「飴玉闘争」は基本的に全く別の作品である。前者は「俺」と「暇があるとヨクしゃべりに来る看守」との会話を軸に飴玉闘争が展開される。他の同志に効果が波及した際にも、「俺」と「看守」の会話があり、その効果を「看守」の口から「みんな真似して」と言わせている。後者は、一貫して「私」を軸に展開する。日向ぼっこの要求をしたところで、自らの「飴玉闘争」を振り返っており、ここの叙述は前者のものと大差がない。他の監房に「効め」(ききめ)が波及し、ここで看守に「共産党にはかなわん!」と言わせているが、前者の個性を持った看守と違い、一般的な看守である。次に「私」は朝鮮の同志のいる隣房へ移される。ここで彼が、「私」の要求と同じく、「人間も天日にさらされてくれんと云っている」ことがわかり、「私は思わず微笑ん」でいる。また彼が「組織的に後をつけてくれている」と、国際連帯も意識した、より一層深い波及効果を描いている。
 以上の違いに加え、最後を比較するとさらに大きく違う。前者は「附記。この小篇は『独房』の一部である。」とあるが、後者は「見ろ!と思った。――同志とはこういうもんだ!私は床をドンドンと踏みならして応援した。」である。後者の「私は床をドンドンと踏みならして応援した。」という一節には、「多喜二奪還事件」の際に、留置所の内と外で呼応して、激しい抗議行動を展開した時の、多喜二の姿を彷彿させるものがある。次の二つの「飴玉闘争」を読んだ後に、村山知義の多喜二の回想を読んでほしい。

  画像参照

 一九三一年の春か秋だったろう。左翼劇場の芝居を前橋、高崎地方へ持っていくことになり、朝、一同上野駅から立った。芝居の幕開き前に講演する筈の多喜二と中野重治も同行した。ところが上野を出て暫くすると、或る駅から主催者の農民組合の人が乗り込んで来て、前橋の駅には警官が出ていて全員逮捕する手筈になっているから、途中でおりてくれ、という。途中の或る駅でおりて、組合員の可成り大きな農家に行き、仕方ないからそこで芝居をやる、ということになり、組合員を召集し初めたところへ、早くも察知した警官隊が襲ってきて、全員つかまえられてしまい、劇団員はそのまま上野へ追い返されたが、小林、中野と私は前橋につれていかれ、警察の留置場へほうり込まれた。コンクリートの地下室に、丸太で囲んだ、猿の檻のような所だ。既に夕方である。多喜二は一刻も黙っていない。
「署長を出せ!何で俺たちをこんな所に入れた?」
「署長はもう官舎へ帰った。」と巡査がいう。
「それなら官舎へ行って連れて来い。そんな無責任なことがあるか?」
と、多喜二は丸太を叩き、床を踏み鳴らし、あばれる。中野と私もやるが、到底多喜二には及ばない。とうとう、一時間あまりで、巡査も持てあまして、署長に相談して、私たちを釈放してしまった。
*村山知義「多喜二の思い出」から(「東京芸術座公演パンフ」所収、一九六八年)

 この「多喜二は丸太を叩き、床を踏み鳴らし、あばれる」と「私は床をドンドンと踏みならして応援した。」は実に似ており、同じ体験を基礎にした可能性を与える。「一時間」は「一晩」と受け取ってほしい。多喜二たちは民衆側と官憲側の交渉は知らなかった可能性はあるだろう。次に、同じ場面を菊池(小林邦作)の文章で見てみよう。

その頃から、伊勢崎署の周辺はだんだん騒しくなってきたのが、留貴所の中からも感ぜられた。留置されている方も、それに勢いずいて、足をバタバタして床を踏み鳴らしたり、『早く出せ!』『演説会を潰すつもりか?』などと怒鳴ったりした。
 私は演説会がどうなったか、心配でならなかった。
 それからどの位の時間がすぎたろうか、外はすっかり暗くなったようで、夜の闇が深まるに従って外の様子は、いよいよただならぬ気配が感じられた。押しよせた群集は数百人少くとも三、四百人は下らないと想像される大衆のざわめき、怒号、喚声が聞えた、その声は段々留置所に近ずいてくるように感ぜられた。誰が指揮をとっているのか、相当の圧力を警察当局にかけていることは、たしかである。留置場の入口には、一人の番人が、内から鍵をかけ、椅子に腰をかけているのが、私の房から見えた。何か心なし沈痛の面持ちのように見える。外に警官の姿は見えなかった。
 そのうち、外からよく揃った革命歌の合唱の声が響いてきた。これをうけて留置所の中からも、期せずして、外の声に合せて革命歌を唱い出しだ。私も、唱った。他の房からも力強い革命歌が漏れた。こんなことは、かって私の経験したことのないことである。留置所の中で革命歌を唱う。しかも大衆と共に!私は、これだけで感激に身がふるえるのを覚えた。外の声はI・W・Wの歌に移った。モチロン、留置所もこれに呼応した。しかし私は感激のあまり、その第一節すら、満足に唱い切れなかった。
*菊池(小林)邦作「伊勢崎署占領事件」から(随筆『柿』所収、一九六七年)

 菊池(小林)邦作も「足をバタバタして床を踏み鳴らしたり」と同じ抗議行動を記している。彼は独房に入れられ、多喜二たちは「保護室」に入ったそうだが、廊下を挟んで向かい合いであった。留置所内外で革命歌を歌ったなら、多喜二たちも歌ったに違いない。検束されたものと救出しようとするものの一体感、その体験を同志達の連帯として、より鮮明に描き直したのが「監房随筆」における「飴玉闘争」ではなかったろうか。

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「多喜二奪還」のぼり旗届く!

2009/08/30 22:52
第2回伊勢崎多喜二祭を前に、「多喜二奪還」のぼり旗がきました。今日やっとポールに付けられたのが、夜だったので、部屋の中です。3本来たので、外ならもっと感じがいいと思います。現地説明会の時に菊池敏清宅の目印になると思います。
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「『多喜二奪還事件』の文学的前提」、印刷・製本会社に回りました!

2009/08/23 23:55
とうとう入稿というか、印刷は自分でして、表紙印刷と製本をしてもうらうための締切がやってきて、2回も延ばしてもらい、やっとこの間、持っていけました。題は「『多喜二奪還事件』の文学的前提−群馬プロレタリア文学の発見とその展開」です。全体の目次は、解説編、資料編、特別編で構成しました。解説編の目次は、「はじめに……本資料集の目的、1講演会グループについて、2『群馬戦線』と『上毛大衆』の概要、3『群馬戦線』と菊池光好、4『上毛大衆』同人と「多喜二奪還事件」、5『上毛大衆』の散文について、6『上毛大衆』の韻文について、7『宣戦』掲載の文芸評論をめぐって、8『全線』刊行の意義、まとめにかえて……「文芸講演会」開催の諸条件」となっています。資料編は、『群馬戦線』の文芸欄、『上毛大衆』の文芸欄、『宣戦』の文芸欄、詩歌集『全線』となっています。特別編は1菊池敏清の文芸活動、2伊藤信吉と「多喜二奪還事件」、3二つの「飴玉闘争」と「奪還事件」です。プロレタリア文学運動の文戦派対戦旗派のような展開が群馬でもあったのです。そこには、地方のプロレタリア文学運動が躍動感をもって展開しています。そういう運動の中心にいたグループがナップ作家を呼んだのです。無産政党的には、右派の社会民衆党に属していましたが、社会民衆党左派と呼んでいいくらいでした。共産党に限りなく接近していきます。9月6日発売で、税別1000円です。
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第2回伊勢崎・多喜二祭、地元紙の上毛新聞で報道!

2009/08/13 00:17
8月10日の上毛新聞に第2回伊勢崎・多喜二祭が報道されました。前売券もでき、希望者はお申し付けください。
メールは haseda@azuma-toshin.co.jp
1000円です。ゆうちょ銀行に口座作ったので教えます。
総選挙、大きな変化を作り出しましょう!
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「多喜二奪還事件」余波を機関誌『ナップ』編集後記に発見!

2009/08/08 15:51
先月、国会図書館に行ってきました。当時のプロレタリア諸団体の機関紙・誌を読んでみました。近くでは、『戦旗』の復刻版は、群馬大学図書館にあります。『文芸戦線』前期も群大にありました。『文芸戦線』後期は群馬県立女子大学の図書館にありました。しかし、ナップの機関誌の『戦旗』が独立してから発行された、ナップの機関誌『ナップ』の復刻版は県内にはないようでした。この機関誌『ナップ』の編集実務を、群馬の伊藤信吉がやっていたのに、どういうことだろうか、と思いましたが、東京から帰ってきて調べたらちゃんと土屋文明記念館にはありました。ここは初代館長が伊藤信吉でした。ともかく、「多喜二奪還事件」の余波を確認しました。この頃の編集長は中野重治だったので、全く中野重治の記述と思い込んで、伊勢崎・多喜二祭ニュースに書いてしまいました。中野重治全集を確認しましたところ、それによって、執筆者が伊藤信吉であることが判明しました。伊藤信吉は回想で、中野重治からメーセッジを預かると言われ、託したと述べていますが、思ったより、文芸講演会の開催に伊藤信吉の関わりがあった可能性が出てきました。また、伊藤信吉だけが文芸講演会にやって来た女優名に三好久子の他に清洲スミ子を挙げていますが、この信憑性も高めてもよいかも知れません。ともかく、9月13日のブルジョア新聞にナップ幹部が拳銃を購入し、襲撃を準備という突拍子もない記事が載ったわけです。東京朝日新聞にはありませんでしたが、東京日々新聞には載っていました。それが写真左側です。とんでもないことです。これを伊藤信吉は「事実は作家同盟員の三人が無理由に検束され即時戻って来ただけであって、ピストルのピの字も出はしなかった。」「芸術そのものが労働者階級の文化戦線における武器となることだ。」と強く批判しています。全くその通りです。
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菊池敏清宅の調査が終了しました。

2009/07/20 15:49
昨日の19日に、群馬県文化財研究会の桑原稔会長を含めた6名の調査グループが菊池敏清宅の調査を行いました。12日の庭の草取りをしたので、かなりさっぱりしていました。気温は、伊勢崎は全国的にも暑く、先日は37度を記録した日もありました。そこまでは暑くなりませんでしたが、30度は超えた上に湿度が高く、かなり作業をするには根気が必要だったと思います。敏清さんの娘さんの規子さんと利根子さんが来てくれ、会からは八田利重会長と相談役の藤田廣登さん、それから事務局の私が対応しました。9時から4時頃迄調査は行われました。桑原先生の説明では、享保年間に築造されたようですが、現在の家屋状態の基礎は、明治10年前後に行われた大改築によるということです。最初は藁葺きでしたが、明治の大改築で、瓦葺きになるとともに、天井裏に櫓(やぐら)が組まれ、養蚕農家の典型的な形態になったそうです。これは「近代和風建築」と呼ばれ、近年注目されているそうです。建築調査とは別に藤田さんと私は、書籍等の調査を若干させて頂きました。その結果、敏清さんの小説や詩の原稿が見つかりました。また、ちょうど「多喜二奪還事件」の昭和6年前後の発表小説一覧表もみつかりました。敏清さんがナップ会員であった理由や新聞で「文芸家」と呼ばれた理由もはっきりしました。写真の上段は調査の様子で下段は見つかった原稿などです。
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「松村文一郎」って誰?

2009/07/12 21:12
「松村文一郎」って誰?というでしょう。写真に出したのは、彼が『上毛大衆』の昭和3年12月創刊号に載せた詩「莨の煙り」(たばこのけむり)です。どうですか?なぜ詩かというと、今年の伊勢崎・多喜二祭に向けて、『資料集』を準備しています。土井先生の講演なので、群馬のプロレタリア文学について、調べています。実は、文芸講演会を準備したグループは、昭和3年から5年にかけて、群馬の労働者・農民の文学運動を作っていたのです。松村文一郎さんは、『上毛大衆』の同人ではありませんでしたが、近い位置にいたようです。無産強戸村で有名な須永好の日記が刊行されていますが、その昭和4年5月19日の記事に松村文一郎さんが登場します。「朝日新聞伊勢崎通信員松村文一郎君来訪し、大衆党本部の内紛について僕の意見を訊く。そして僕の写真を撮り、尚、菊池光好君に六回(一回、十五字、五十行)出しの強戸村記事を求めて帰る。」とあります。須永好の日本労農党は前年の12月に日本農民党や無産大衆党等と合同し、日本大衆党になっていました。「内紛」とは、いわゆる清党問題といわれているものかと思います。ここでは「松山文一郎」が「朝日新聞」の記者、それも「伊勢崎通信員」であることに注目したいと思います。彼は『上毛大衆』に他にも記事を寄せています。昭和4年11月号に随筆「秋が来たけれど」を「松村文一路」名で載せています。なぜ随筆を書いたのか、その理由を「顔をみるたび『何か書け』と云ふ本誌の小林、吉田両氏に『今月こそ何か書かせて貰ひます』と安受合ひをしながら一年近く虚を云ひ通して来た私である」が「そうそう嘘ばかり云へなくなり」書いたと述べています。「小林、吉田両氏」というのは、「奪還事件」で多喜二とともに検束された「小林邦作」と検束を逃れ、文芸講演会の決行を指導した「吉田庄蔵」のことです。また、おもしろいのは、自分の生活振りを叙述していることです。「八時遠冷めした下宿の飯を一人で喰って形の如く警察に行く、で、死んだ生きた盗んだ無銭飲食したやれ人妻が駈落ちしたの役場は役場で納税がどうの織物組合では景気が良いの悪いの織がどうのと書なぐり學佼や諸官署の催ごとなど掻集め十一時半の汽車にその原稿を積んで晝飯となる。午後も同じ路を形の如く廻って電話で記事を送って夜るとなるのである、これが新聞記者としての私の日科である。」とあります。これだけでも地方新聞記者の一日としておもしろいですが、「伊勢崎に来てからモウ一年になる」とあるのが重要です。これで、『須永好日記』の「朝日新聞伊勢崎通信員」というのが、本人の筆で確認されました。彼は昭和3年秋に伊勢崎通信員として伊勢崎に赴任したのです。もし彼が昭和6年9月まで「伊勢崎通信員」でいたら、東京朝日新聞関係の「文芸講演会」の予告や「多喜二奪還事件」の報道、「ナップ系文士 奪還で乱闘」の【伊勢崎電話】の送信者である可能性が出てきました。

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前橋市史、伊勢崎市史別ページにも「多喜二奪還事件」

2009/07/04 21:24
1984年に発行された『前橋市史・通史編・近現代(下)』の「第八編近現代下」の「第六章思想・事件」の「第二節社会主義のあゆみ」の「(9)社会主義者の弾圧続く」の第3項目に「伊勢崎文芸講演会事件」として取り上げられていました。応援に来た人の多くに前橋の人がいました。弁護士で、事件で交渉の中心であった石井繁丸さんは、戦後社会党の代議士になった後、前橋市長になっています。また、佐田一郎さんは、家業の佐田建設を継いで、県内大手のゼネコンに成長させ、自民党から代議士になりました。現在孫の玄一郎が国会にいると思います。戦後共産党の県委員長になった堤源寿さんや坂内一登司さんも前橋です。トラックで駆けつけた遠藤可満(かまん)さんも前橋です。終戦直後の県議選で社会党から当選し、その後無所属を経過し、共産党に入党し、初の共産党県議団を構成しました。奪還事件の時も県議選の最中でしたが、その時立候補していた尾池真弓さんも遠藤さんと同じように、その共産党県議団の一員になりました。遠藤さんが「大胡」の仲間と応援に駆けつけたと言ってますが、それは岩丸波太郎さんのことだろうと推測されます。菊池(小林)邦作さん、尾池真弓さん、岩丸波太郎さんは「群馬青年共産党事件」の時からの仲間でした。この3人と遠藤可満の4人は共同行動をしています。『伊勢崎市史』の方は、『群馬戦線』と『上毛大衆』の記述を探していたら、「出版文化と文学」という項目で、来伊した文学者という文脈で記述されていました。多喜二たちは共栄館には行けなかったわけですが、最近読んだもので別の共栄館の講演会を知りました。大正12年に出された日本のアナーキズム系の詩誌『赤と黒』発刊記念連続講演を伊勢崎の共栄館でしていました。壺井繁治や地元の萩原恭次郎など10人以上の講演があったようです。
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ポスターやチラシ(白黒)、ほぼ完成!

2009/06/27 15:28
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ポスターも校正が終わり、来週すぐできあがってくる気配です。チラシ(白黒)は、本日午前中に印刷しました。昨年は、伊勢崎市の後援が取れたのですが、今年は群馬県と地元新聞の上毛新聞社にも後援申請をしました。その結果、申請が許可され、「後援、伊勢崎市・群馬県・上毛新聞社」となりました。チラシの表と裏を並べて表示します。印刷が必要な場合は、PDFで表示・印刷してください。pdfはhttp://www.takijidakkan.com/2009chirashi2.pdf でダウンロードできると思います。チラシ(白黒)の郵送は、以下のメールにお申し込みください。 haseda@azuma-toshin.co.jp (長谷田直之まで) (自分でpdfをダウンロードして表示したら、形がやや崩れました。すいません。)
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第2回伊勢崎・多喜二祭は9月6日午後2時に開催します!

2009/06/11 00:13
今年の伊勢崎・多喜二祭のポスターがほぼできつつあります。そのまま小さくしてチラシの表にします。逆かもしれません。チラシの表を作って、そのまま拡大してポスターにするのかもしれません。去年、伊勢崎市に後援していただいたので、今年も後援申請を出してあります。最近、実行委員会を「いせさき明治館」(市の重要文化財)という市の文化施設でやっています。市の文化観光課に行って、借りる手続きをして、当日鍵を借りにいくのですが、実行委員会の会議での使用は、使用料金が減免になりました。(http://www.isesaki.ne.jp/kankoukyoukai/meijikan.html
また、群馬県と上毛新聞にも後援申請をしてみました。県には、会則は?と言われ、会則(案)を作ってみました。
「第1章  名  称
本会は「伊勢崎・多喜二祭実行委員会」と称する。本会の事務所は、事務局長宅に置く。
第2章  目  的
本会はプロレタリア文学の代表としての小林多喜二の業績や生き方等に学びつつ、「多喜二奪還事件」の究明、普及、顕彰を行い、伊勢崎市や群馬県の文学活動・歴史研究の裾野を広げることに資すことを目的とする。
第3章  事  業
本会は前章の目的を達成するために、次の事業を行う。
2小林多喜二や活動の先人たち、「多喜二奪還事件」を記念した多喜二祭を行う。
3事件に関連した人々やその家族等との交流に努める。
4プロレタリア文学や事件関連の資料・書籍の収集、書籍復刻や書籍刊行を行う。
5その他、本会の目的遂行のために必要な事業並びに講習等を行う。
第4章  会  員
本会は「第2章目的」に賛同する会員によって組織する。また、事件関係者の家族等を準会員として協力関係を保つ。
第5章  加入及び脱退
本会に加入しようとするときは、所定の申込書に記入して提出するものとし、また脱会しようとするときは、上記に準じて届け出るものとする。
第6章  会  の  運  営
本会は、事業収益、その他によって運営する。
第7章  役  員
本会に次の役員を置く。
代表1名・副代表1名・事務局長(会計兼任)1名・会計監査1名
第8章  役員の任期及び選出
本会の役員の任期は2年とし、再任を妨げない。役員は総会で選出される。
第9章  相談役
本会に相談役を置くことができる。相談役は総会の承認を得て、代表が委嘱するものとする。
第10章  総  会
次の事項は総会に提出し、その承認をうけなければならない。
 2前年度事業報告 3前年度収支決算
 4新年度事業計画案 5新年度予算案
第11章 総会は代表がこれを招集する。
    2総会の議決は出席した人員の過半数による。
    3可否同数の時は、議長が決する。
    4総会に出席できない会員は、委任状を提出する。
第12章  会計年度
本会の会計年度は、毎年4月1日より翌年3月末日までとする。」
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2009年伊勢崎・多喜二祭の講演に土井大助さん!

2009/05/29 14:47
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実行委員会で、今年の伊勢崎・多喜二祭をどう迎えるか、どう創るか論議してきました。「多喜二奪還事件」そのものの追求は、もちろん大事だが、多喜二祭という多喜二そのものに親しむことも大事だと意見が大勢となり、満場一致で詩人の土井大助さんを講演の第一候補者にさせていただきました。この度、快く講演を引き受けてくださった土井さんに感謝申し上げます。土井さんの主要著作を次に列挙します。
詩集など
「詩集 十年たったら」飯塚書店、1965年
「個人的な声明−土井大助詩集」飯塚書店、1970年
「私の検詩ノート」光和堂、1971年
「詩と人生について」飯塚書店、1972年
「土井大助詩集」青磁社、1978年
「土井大助・詩の世界」青磁社、1982年
「朝のひかりが(土井大助詩集)」新日本出版社、1990年
「多摩川の凱歌」新日本出版社、2001年、多喜二・百合子賞受賞作。
ルポ・伝記
「八鹿の夜明け」日本共産党中央委員会出版局、1975年
「ここに生きる(現地ルポ・たたかう日本共産党員たち)」 新日本出版社、1980年
「末期戦中派の風来記」本の泉社、2008年
多喜二
「小林多喜二」(民主主義の思想家シリーズ)、汐文社、1974年
「青春の小林多喜二」光和堂、1997年
「よみがえれ小林多喜二」白樺文学館多喜二ライブラリー、2003年
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桜に映える旧菊池敏清宅

2009/05/14 15:35
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ちょっと遅れてしまいましたが、多喜二が休憩し、茶話会で講演し、文芸講演会に出かける前に検束された旧菊池敏清宅の、春の写真を頂きました。桜がきれいですね。写真は、近くに住んでいる石川さんの撮影です。随筆『柿』の中で、菊池(小林)邦作は、「多喜二が座敷の床柱を背にして、あぐらを掻き火のない大きな火鉢を前にして腕組みをして話をつづける姿である。その顔は赤旗の三、一五記念号などによく出てくるあの写真の顔そっくりで、年よりずっとふけていて、当時とても二十八才の青年には見えなかった。私が蚕種製造業小林邦作という名刺を差出し、自己紹介すると、多喜二は、興味深そうに私の名刺に見入っていたが、やがて私の顔を見返し、ニッコリ笑って名刺を袂に入れた。その時『僕は名刺をもっていないので−』と多喜二は云った。」と回想していますが、この多喜二が語った家が、百数十年の風雪に耐えて現存しています。私たちは、できれば残したいと考えています。この度、群馬県内の古民家調査を多数手がけている研究会の会員の方から、調査対象として検討する可能性のあることを打診されました。この方が、昨年の伊勢崎・多喜二祭に参加して下さり、旧菊池敏清宅を見てのことです。今後の展開が楽しみです。菊池敏清の戦前の活動については、まだまだ未解明の部分が残されています。東京帝大2年で帰郷し、ナップ会員として、『戦旗』配布網を作り上げます。彼は、茂呂の菊地家の本家の嫡男であり、およそ二十町歩の地主の地位にいたわけですが、昭和6年の「多喜二奪還事件」の後の、昭和7年の「反建国祭事件」では、主導的役割を果たしました。また、本家を相続した後の昭和12年には、小作人に農地の無償解放を菊池盛男の父幸八とともに行っています。終戦直後には、民論社を興し、雑誌「民論」をはじめ、民主的書籍の刊行を行い、その後「伊勢崎民主新聞」を長年に渡って発行し続けました。
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新たな証言で、多喜二奪還事件の姿が鮮明に!

2009/04/26 21:31
久々の記事です。先日、多喜二奪還事件の当事者の一人である菊池盛男さんの弟の正(ただし)さんから再度お話しを伺いました。前回の話は既に1月2日のブログに載せました。まず再録します。「事件当時、小学校の3年生か4年生だったそうですが、多喜二たちが早めの夕飯を食べに来た時に、声をかけられたそうです。多喜二から『大きくなったら何になるのかな?』と聞かれ、『弁護士になりたい。』と答えたのをよく覚えているそうです。正さんは87歳ですが、ご壮健です。既に兄の盛男さんが検束された経験があり、裁判の関係で弁護士が家に出入りしていたので、『弁護士』という職業を知っていたそうです。」今回さらに、多喜二は質問したときに頭を撫でながら聞いたということが判りました。また、正さんは8人兄弟の末っ子で、当時大沢一六弁護士夫妻の養子になるという話が進行していたそうです。それもあり、弁護士ということを意識したそうです。また、お姉さんたちが白い布を切って、色を塗り、上り旗を急に作り、そこに近所の仲間、運動の支持者が集まり、ざわざわして、警察に捕まった仲間を助けにいくと出かけていったのを覚えているそうです。また、事件当事者の菊池(小林)邦作さんの長男である進さんからもお話しを聞けました。多喜二奪還事件は進さんが小学校2年生の時でした。当時小林家は忠桑館という蚕の種屋をしていて、その番頭さんがどこにいくにも連れていってくれたそうです。その日も自転車の後ろに乗り、ついたのが共栄館だったのです。会場は満員で、立ち見の人が壁際にあふれていたそうです。あるおじさんが通路を走って壇上に駆け上がりみんなに訴え、弁士中止を受けたが、やめなかったら会場の私服が四、五人駆け上がって取り押さえたそうです。そして、聴衆が総立ちになり、背が足りず何も見えなくなったそうです。後年、共栄館の横を通るたびに、その時の沸き上がるような熱気を思い出していたそうです。今思うと、そのおじさんが盛男さんだったわけです。父の邦作さんと盛男さんは従兄弟ですが、父母のいなくなった邦作さんは、婿養子に行くまで盛男さんの家で育てられました。写真は、小林邦作時代の家族の写真です。奪還事件直後のもので、左から邦作さん、進さん、悟さん、實さん、まちさんとなります。
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