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プロフィール
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2009/07/04 21:24
1984年に発行された『前橋市史・通史編・近現代(下)』の「第八編近現代下」の「第六章思想・事件」の「第二節社会主義のあゆみ」の「(9)社会主義者の弾圧続く」の第3項目に「伊勢崎文芸講演会事件」として取り上げられていました。応援に来た人の多くに前橋の人がいました。弁護士で、事件で交渉の中心であった石井繁丸さんは、戦後社会党の代議士になった後、前橋市長になっています。また、佐田一郎さんは、家業の佐田建設を継いで、県内大手のゼネコンに成長させ、自民党から代議士になりました。現在孫の玄一郎が国会にいると思います。戦後共産党の県委員長になった堤源寿さんや坂内一登司さんも前橋です。トラックで駆けつけた遠藤可満(かまん)さんも前橋です。終戦直後の県議選で社会党から当選し、その後無所属を経過し、共産党に入党し、初の共産党県議団を構成しました。奪還事件の時も県議選の最中でしたが、その時立候補していた尾池真弓さんも遠藤さんと同じように、その共産党県議団の一員になりました。遠藤さんが「大胡」の仲間と応援に駆けつけたと言ってますが、それは岩丸波太郎さんのことだろうと推測されます。菊池(小林)邦作さん、尾池真弓さん、岩丸波太郎さんは「群馬青年共産党事件」の時からの仲間でした。この3人と遠藤可満の4人は共同行動をしています。『伊勢崎市史』の方は、『群馬戦線』と『上毛大衆』の記述を探していたら、「出版文化と文学」という項目で、来伊した文学者という文脈で記述されていました。多喜二たちは共栄館には行けなかったわけですが、最近読んだもので別の共栄館の講演会を知りました。大正12年に出された日本のアナーキズム系の詩誌『赤と黒』発刊記念連続講演を伊勢崎の共栄館でしていました。壺井繁治や地元の萩原恭次郎など10人以上の講演があったようです。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[0 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/06/27 15:28
ポスターも校正が終わり、来週すぐできあがってくる気配です。チラシ(白黒)は、本日午前中に印刷しました。昨年は、伊勢崎市の後援が取れたのですが、今年は群馬県と地元新聞の上毛新聞社にも後援申請をしました。その結果、申請が許可され、「後援、伊勢崎市・群馬県・上毛新聞社」となりました。チラシの表と裏を並べて表示します。印刷が必要な場合は、PDFで表示・印刷してください。pdfはhttp://www.takijidakkan.com/2009chirashi2.pdf でダウンロードできると思います。チラシ(白黒)の郵送は、以下のメールにお申し込みください。 haseda@azuma-toshin.co.jp (長谷田直之まで) (自分でpdfをダウンロードして表示したら、形がやや崩れました。すいません。)'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[1 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/06/11 00:13
今年の伊勢崎・多喜二祭のポスターがほぼできつつあります。そのまま小さくしてチラシの表にします。逆かもしれません。チラシの表を作って、そのまま拡大してポスターにするのかもしれません。去年、伊勢崎市に後援していただいたので、今年も後援申請を出してあります。最近、実行委員会を「いせさき明治館」(市の重要文化財)という市の文化施設でやっています。市の文化観光課に行って、借りる手続きをして、当日鍵を借りにいくのですが、実行委員会の会議での使用は、使用料金が減免になりました。(http://www.isesaki.ne.jp/kankoukyoukai/meijikan.html)'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[2 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/05/29 14:47
実行委員会で、今年の伊勢崎・多喜二祭をどう迎えるか、どう創るか論議してきました。「多喜二奪還事件」そのものの追求は、もちろん大事だが、多喜二祭という多喜二そのものに親しむことも大事だと意見が大勢となり、満場一致で詩人の土井大助さんを講演の第一候補者にさせていただきました。この度、快く講演を引き受けてくださった土井さんに感謝申し上げます。土井さんの主要著作を次に列挙します。 |
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2009/05/14 15:35
ちょっと遅れてしまいましたが、多喜二が休憩し、茶話会で講演し、文芸講演会に出かける前に検束された旧菊池敏清宅の、春の写真を頂きました。桜がきれいですね。写真は、近くに住んでいる石川さんの撮影です。随筆『柿』の中で、菊池(小林)邦作は、「多喜二が座敷の床柱を背にして、あぐらを掻き火のない大きな火鉢を前にして腕組みをして話をつづける姿である。その顔は赤旗の三、一五記念号などによく出てくるあの写真の顔そっくりで、年よりずっとふけていて、当時とても二十八才の青年には見えなかった。私が蚕種製造業小林邦作という名刺を差出し、自己紹介すると、多喜二は、興味深そうに私の名刺に見入っていたが、やがて私の顔を見返し、ニッコリ笑って名刺を袂に入れた。その時『僕は名刺をもっていないので−』と多喜二は云った。」と回想していますが、この多喜二が語った家が、百数十年の風雪に耐えて現存しています。私たちは、できれば残したいと考えています。この度、群馬県内の古民家調査を多数手がけている研究会の会員の方から、調査対象として検討する可能性のあることを打診されました。この方が、昨年の伊勢崎・多喜二祭に参加して下さり、旧菊池敏清宅を見てのことです。今後の展開が楽しみです。菊池敏清の戦前の活動については、まだまだ未解明の部分が残されています。東京帝大2年で帰郷し、ナップ会員として、『戦旗』配布網を作り上げます。彼は、茂呂の菊地家の本家の嫡男であり、およそ二十町歩の地主の地位にいたわけですが、昭和6年の「多喜二奪還事件」の後の、昭和7年の「反建国祭事件」では、主導的役割を果たしました。また、本家を相続した後の昭和12年には、小作人に農地の無償解放を菊池盛男の父幸八とともに行っています。終戦直後には、民論社を興し、雑誌「民論」をはじめ、民主的書籍の刊行を行い、その後「伊勢崎民主新聞」を長年に渡って発行し続けました。 |
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2009/04/26 21:31
久々の記事です。先日、多喜二奪還事件の当事者の一人である菊池盛男さんの弟の正(ただし)さんから再度お話しを伺いました。前回の話は既に1月2日のブログに載せました。まず再録します。「事件当時、小学校の3年生か4年生だったそうですが、多喜二たちが早めの夕飯を食べに来た時に、声をかけられたそうです。多喜二から『大きくなったら何になるのかな?』と聞かれ、『弁護士になりたい。』と答えたのをよく覚えているそうです。正さんは87歳ですが、ご壮健です。既に兄の盛男さんが検束された経験があり、裁判の関係で弁護士が家に出入りしていたので、『弁護士』という職業を知っていたそうです。」今回さらに、多喜二は質問したときに頭を撫でながら聞いたということが判りました。また、正さんは8人兄弟の末っ子で、当時大沢一六弁護士夫妻の養子になるという話が進行していたそうです。それもあり、弁護士ということを意識したそうです。また、お姉さんたちが白い布を切って、色を塗り、上り旗を急に作り、そこに近所の仲間、運動の支持者が集まり、ざわざわして、警察に捕まった仲間を助けにいくと出かけていったのを覚えているそうです。また、事件当事者の菊池(小林)邦作さんの長男である進さんからもお話しを聞けました。多喜二奪還事件は進さんが小学校2年生の時でした。当時小林家は忠桑館という蚕の種屋をしていて、その番頭さんがどこにいくにも連れていってくれたそうです。その日も自転車の後ろに乗り、ついたのが共栄館だったのです。会場は満員で、立ち見の人が壁際にあふれていたそうです。あるおじさんが通路を走って壇上に駆け上がりみんなに訴え、弁士中止を受けたが、やめなかったら会場の私服が四、五人駆け上がって取り押さえたそうです。そして、聴衆が総立ちになり、背が足りず何も見えなくなったそうです。後年、共栄館の横を通るたびに、その時の沸き上がるような熱気を思い出していたそうです。今思うと、そのおじさんが盛男さんだったわけです。父の邦作さんと盛男さんは従兄弟ですが、父母のいなくなった邦作さんは、婿養子に行くまで盛男さんの家で育てられました。写真は、小林邦作時代の家族の写真です。奪還事件直後のもので、左から邦作さん、進さん、悟さん、實さん、まちさんとなります。 |
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2009/03/19 17:07
多喜二たちが検束されても、文芸講演会は決行されました。「伊勢崎署占領事件の真相を語る座談会」の中で、弥勒寺撰三(みろくじせんぞう)氏が、代理弁士が壇上に上がるが、次々に中止になるので、仕方なく自分が、三好十郎「棺の後ろから」という詩を朗読したが、これも中止になったと語っています。この詩を探したところ、『戦旗』の1928年7月号に載っていました。『戦旗』は創刊されたばかりで、まだ3号目でした。このことから、弥勒寺撰三氏は『戦旗』創刊時より『戦旗』を購読していた可能性があります。また、岡田宝司氏が伊勢崎支部の『戦旗』配布について、東は太田から西は駒形と言っています。菊池敏清氏は、「座談会」で定期購読50部、最高時150部と語っています。伊勢崎多喜二祭の講演で250部という数字も出ていますが、これは延べ人数くらいのようです。この「伊勢崎支部」が、『戦旗』支局を指すのか、無産政党の支部を指すのかはわかりません。無産政党なら、複雑です。伊勢崎の無産政党は、この年の秋に日本労農党から社会民衆党に移っています。思うに、政党が変わっても、一貫して『戦旗』は配布、購読され、「左傾化」に貢献したのではないかと思います。「多喜二奪還事件」の時には、無産政党の再統一が図られ、全国労農大衆党が成立しましたが、その伊勢崎支部は「奪還事件」から4ヶ月後の1932年1月に消費生活組合運動(現在の生協です。)に力を入れるとして、解散しました。「奪還事件」で民衆の力、エネルギーに確信を持ち、右傾化する無産運動に見切りをつけ、民衆のエネルギーを結集する新たな道に踏み出したのではないかと思います。 |
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2009/03/15 21:34
松本善明さんがいわさきちひろさんを回想したというか、ちひろの人生を追求した『ちひろ』に出会いました。「第二章原点」でちひろが日本共産党に入党した経緯や動機などを探っています。平山知子さんの『若きちひろへの旅』が大きな導きとなったようですが、夫であった著者の視角からも迫っています。その中で菊池邦作さんの影響も大きかったと確認して、「少し立ち入って邦作さんのこと」に触れています。そこにある著作で「あすの農村」の対談、「ソ連、ヨーロッパの旅」「幸徳事件物語」は残念ながらまだ目にしていません。若干本文で誤解かなと思うのは「1923年群馬共産党事件連座起訴さる」に(起訴はされていない)という注があることです。この事件で邦作さんは「禁固6ヶ月執行猶予3年」の判決を受けています。また『無産党の行方』の説明の「労働農民党を支持した活発な運動家」というのは、1932年という『無産党の行方』を執筆した時点の到達ならば、その通りですが、『無産党の行方』が執筆の対象とした1925年頃から1929年頃にかけては、そうではなかったと思われます。「活発な運動家」というのは、その通りですが、労働農民党から日本労農党へ、そして社会民衆党へと移りました。しかし、邦作さんは、そんな枠の中で活動できる器でなかったのを示したのが「多喜二奪還事件」だったのではないかと考えています。 |
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2009/03/08 22:42
全国で小林多喜二や戦前の苦難な状況下で日本の未来を切り開いてきた方々の顕彰は、本当に重要だと思います。日々の活動が一つ一つ意味を持つのは、私たちの前に現在の土台を作ってきた多くの人々がいるからでしょう。伊勢崎では、「多喜二祭」という形で顕彰活動をしたのは初めてでしたが、ポスターなどの宣伝効果もあったからでしょうか?共産党市議団が行ったアンケート活動の中に「どんなご神体を祭っているのですか?」という質問があったそうです。また、「小林多喜二を神に祭り上げるのか?」というご心配も頂きました。残念ながら匿名のため、直接話しを聞けませんでしたが、私たちは多喜二を神のように祭るのではなく、多喜二の文学や生きた姿勢に学ぼうとしているのですよと説明したかったところです。きっと回数を重ねていけば、理解も広がっていくような気がします。伊勢崎から全国の多喜二祭に送ったメッセージをアップします。もし、届いていない集会やシンポジウムの関係者の方はお気を悪くなさらないで下さい。こちらの不手際です。お届け先を知らせて頂ければ、いつでも発送致します。宜しくお願い致します。 |
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2009/03/03 22:56
先日、菊池邦作『無産党の行方』を日本の古本屋を経由して入手できました。副題に「群馬無産党史」とあるように群馬の無産運動を理解するには、必須と思っていました。でも、県内の図書館には、どこにもなくて、国会図書館にあるので、早く見に行きたいと思っていたところでした。(大学図書館でも、京大・九大・千葉大等しかありません。)これは、多喜二奪還事件から一年後、邦作が全協のオルグを匿いつつ、「赤旗」三部を極秘に配布していた時期に書かれたものです。非合法の日本共産党に限りなく接近していました。1932年の前半に地元の新聞「上州新報」に30回くらい連載したものです。こちらでは、副題が「全国無産党観と県下の無産党史」となっていました。散逸してしまった記事を、ある新聞記者が保存しておいたものを邦作に寄贈したのです。この「上州新報」という新聞は、「上毛新聞」に対して野党的立場を取っていたらしいですが、ほとんど保存されておらず、残念な限りです。この記事の前に序文を付けて1959年に発行したわけです。全文ガリ切りという記念すべき著作です。ちょっと字が読みづらいですが、その序文をアップしてみます。 |
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2009/03/01 13:53
知り合いの方から、46分テープ・29本に録音した戦争体験を年末に預かり、先日聞き終わりました。その方は倉林幸三郎さんと言います。倉林さんは中国戦線に赴き、戦闘や行軍を体験しますが、機敏な上に向上心が強いところを認められ、憲兵学校に入ることになります。めでたく卒業し、赴任したのがまた中国です。戦地では、憲兵隊の中の特高があるようです。彼は、特高の一員として、国民党や中国共産党の動きを探ります。その後、南方の仏領インドシナ戦線に転地し、ベトナムのブインで憲兵隊の創設に関わります。そこで終戦を迎えますが、帰還しない兵士の説得活動を行った後、日本行きの船に乗り、長崎まで来ますが、解放されず、東京の巣鴨拘置所に収監され、再度ベトナムへ送還されます。そこでフランスの戦争裁判を受け、懲役18年の刑となり、プチコンドル島送りとなります。この島は、後のベトナム戦争時に虎の檻と呼ばれ恐れられる収容所の島です。4年くらい経ったところで連合軍管理となり、東京の巣鴨拘置所に移されます。サンフランシスコ平和条約が結ばれることになり、釈放されました。終戦から8年後のことです。戦争を推進した側として、戦争責任が問われたわけですが、実際の体験を聞くというのは、意味があると思います。確かにBC級裁判になると、問題がないわけでもないようです。彼の懲役18年というのは、彼の憲兵隊の特高としての任務そのものではなく、彼の隊で仏軍兵士を拘束・虐待した罪の連帯責任が問われたものでした。夜間の日直についたことが、責任を負うべきとされたものです。これらのことが、極東裁判そのものを否定するものとなってはいけないと思いました。日本の戦争責任の処理が真の責任者に及ばず、また、日本人自身の手でも戦争責任を追及する機会を持ち得なかったからです。戦地の特高は、翻って内地では、同胞の戦争に反対した、善良な多くの人々に拷問や虐殺、恐怖を与えたわけです。その点では、戦地の特高は、日本帝国主義からの民族的独立をめざした多くの人々を弾圧する役割を果たしたわけです。それでも、実際の体験をくぐりぬけてきた倉林さんに会って、お話しを色々聞きたいと思いました。共産党後援会の「新春の集い」が終わって連絡を取ったところ、調子が急に悪くなり、急逝なさったとのことでした。「集い」の前日のことでした。ここにご冥福をお祈りするとともに、二度と日本が戦争しないように平和憲法を守るべきだと改めて思いました。 |
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2009/02/21 00:39
2月20日をいつもとはかなり違う気持ちで迎えました。伊勢崎・多喜二祭の意味を多喜二の人生と共に考えていきたいと思います。上毛新聞2月17日のコラムでも多喜二忌を取り上げていましたので、紹介します。 |
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2009/02/17 17:43
多喜二の『蟹工船』とともに徳永直『太陽のない街』も『戦旗』に連載されたものです。『戦旗』は1928年5月号より発刊され、「多喜二奪還事件」の起こった1931年9月の直後、1931年12月号まで発行されました。『蟹工船』は、「其の一」を1929年5月号、『太陽のない街』は「前編」として1929年6月号に載りました。この6月号には『蟹工船』「其の二」も載っています。今から思うと豪華ですね。7月号は『太陽にない街』だけで、「後編」ではなく「(2)」になって、続いています。小林多喜二、村山知義、中野重治が伊勢崎にやってきたのが、1931年9月6日、国際無産青年デーであるとともに県議選の最中でした。それから5ヶ月後、1932年2月11日、紀元節の日、多喜二たちが検挙された菊池敏清宅に徳永直、鹿地亘がやってきました。文学研究会と名和村の小作争議の対策でした。今度の2月22日伊勢崎佐波日本共産党後援会の「新春の集い」で、この問題を取り上げ、15分くらいですが、上映します。興味ある方はお問い合わせ下さい。内容は現在検討中です。当時の上毛新聞では「反建国祭」と報じられています。 |
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2009/02/04 20:43
昨年『蟹工船』が流行して、驚きもしましたが、嬉しかったりもしました。昔、予備校で浪人生を教えていたことがあり、その頃、元気のない生徒に、『蟹工船』の最後の「そして、彼等は、立ち上った。――もう一度」を話してあげたりしていました。その頃も『蟹工船』を読んで、立ち直って、大学に進んでいった生徒が何人もいました。最近の派遣や非正規労働など、労働や労働力自体を、単なる利潤追求の道具と見る風潮は、まさに戦前の野蛮な頃と同質の発想だと思います。そこのところを『蟹工船』は感じ取らせるというか、感じ取ることができるような若者達が増えたということでしょうか。 |
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2009/01/11 11:46
多喜二のある一日の行動が明らかになりました。1931年9月6日母や弟と一緒に住み始めた馬橋の家を朝早く出て、村山知義、中野重治等と前橋行きの列車に乗り、本庄で下車し、佐波郡茂呂村、同 伊勢崎町に向かったのです。茂呂村の菊池敏清宅で検束され、伊勢崎署の保護室に講師3人は留置されました。民衆の抗議と威圧(第1回攻防戦)、警官の署からの一時的退避、革命歌の合唱、警官隊の再編成と第2回攻防戦、警察側と民衆側の交渉とその成立(午前2時頃)、午前5時頃の釈放と続きました。保護室にいた多喜二は、どこまで事態を把握していたか定かではありませんが、村山知義の回想により、終止一貫して抗議を続けていたことが明らかになりました。3人は始発で東京に無事帰還したのです。ほぼ24時間、丸一日です。昨年伊勢崎多喜二祭を報道した記事で多喜二が伊勢崎に「宿泊」と肯定的に書いたものがありましたが、もう少しいい宿舎に泊めてあげたかったと思います。多喜二の身になってみると、菊池敏清宅で「台所と文学」を話し、菊池盛男宅で茗荷の味噌汁の夕飯を食べた後は警察にいたわけですから、講演会の成果というと、定かでなかったかも知れません。しかし、エッセーに書いたように、毎年多喜二のことを思い出すわけです。これは活動や仕事や勉強でも慣れてくると惰性に陥りやすいものですが、「初心忘るべからず」という作用を果たすとともに、弾圧側、国家権力への怒りを常に持ち続け、その本質と内的対峙を迫られるという作用もあったのではないかと思います。多喜二の話を聞いた人の中で、菊池邦作が名前を残したほとんどの人が、戦後日本共産党が再建されると、その隊列に加わりました。この演説会を準備した中心メンバーは、戦前の無産政党の中では、右派と言われた社会民衆党に所属していたのですから、大きな驚きです。ナップ会員の菊池敏清が帰郷したことも大きな変化を与えたと思いますが、社会民衆党伊勢崎支部自体の左傾化を考えなければ、多喜二たちの招聘という事態はありえなかったと思っています。 |
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2009/01/05 23:24
吉田庄蔵は多喜二奪還事件の当事者です。吉田印刷という会社を戦前からやっていました。無産運動と深く関わり、政治的には、菊池(小林)邦作と同じような立場だったようです。昭和3年に発行された『群馬戦線』も、それに対抗して出された『上毛大衆』も吉田印刷です。『伊勢崎市史』によると、行政の印刷も請け負い、戦時中は陸軍関係の印刷もしていたようです。敗戦直後から『潮流』という総合雑誌を出しますが、これが全国的に売れたそうです。5年くらい発行され、本社を東京に移し、社名も潮流社と変えたりします。昨日、伊勢崎図書館で1年目(第1巻)の何冊かを見ました。執筆者がすごいですよ。確かに岩波の『世界』と競れる内容です。『世界』には、運動論は少ないような気がしますが、『潮流』には、運動論も共産党系から社会民主主義系まであるようです。昭和 21年9月号の編集後記で「今度の座談会で久しぶりに鹿地亘氏に会った。十数年前のことである。鹿地氏たちをめぐり日本社会運動史上特筆すべき大きなことがらが、いまだ未発表のまま残されている。いつか発表の機を得たいと思う。こうした永き史的過程も十年一日の感なきを得ない。……以下略……」と述べています。この「未発表」の「日本社会運動史上特筆すべき大きなことがら」が、多喜二奪還事件のことであろうと推測されます。事件当事者で事件を回想した 1967年の「座談会」の席でも、事件から半年後に伊勢崎に来た徳永直、鹿地亘との混同が話題になっています。この時も講師や主催者は検束されました。つまり、鹿地氏との出会いから、多喜二奪還事件を回想し、その事件の重大性を再認識したわけです。画像は『潮流』創刊号の目次をアップしました。昭和21年 1月号です。 |
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2009/01/02 17:32
新しい1年が始まりました。昨年末、ブログとは別に「多喜二奪還事件研究室」(http://www.takijidakkan.com/)を開設しました。関連資料などをやや体系的にしたいと思います。まだ、菊池邦作著『随筆 柿』の関連2文献のみですが、今後充実させていきたいと思います。また、youtubeに2008年9月7日の伊勢崎・多喜二祭の講演DVDから動画をアップし始めました。八田利重(りじゅう)実行委員長の挨拶と、平山知子さんの講演が見られます。(http://jp.youtube.com/)の検索で多喜二とか多喜二奪還、伊勢崎多喜二祭等で見られます。平山さんの講演は3つにわけてあります。それから、非常に嬉しいニュースがあります。事件当時者の菊池盛男さんの弟にあたる菊池正さんにお話を伺いました。事件当時、小学校の3年生か4年生だったそうですが、多喜二たちが早めの夕飯を食べに来た時に、声をかけられたそうです。多喜二から「大きくなったら何になるのかな?」と聞かれ、「弁護士になりたい。」と答えたのをよく覚えているそうです。正さんは87歳ですが、ご壮健です。既に兄の盛男さんが検束された経験があり、裁判の関係で弁護士が家に出入りしていたので、「弁護士」という職業を知っていたそうです。今年は、『蟹工船』80周年です。多喜二奪還事件78周年です。平和と進歩の潮流が一段と大きく、そして広くなる一年にしたいものです。 |
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2008/12/28 15:51
色々この「多喜二奪還事件」について調べてみると、当時の無産政党の動きやプロレタリア文学運動の展開、それと連動した群馬県内の各勢力の動きなど考えてみる必要に迫られました。無産政党はスタート時は農民労働党という統一したスタートをしますが、即日解散でした。次に労働農民党ができますが、右派の社会民衆党ができ、中間派の日本労農党もできます。あと日本農民党もあったようですが、一般に左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会民衆党です。群馬では、左派と中間派が強かったようですが、3・15事件の弾圧で労働農民党は弱まります。本事件の時には、無産政党の統一という動きが功を奏してやや統一し、全国労農大衆党が生まれた直後でした。応援に来た堤源寿は左派、弁護士の石井繁丸は中間派でした。本事件の主催グループを多くの叙述は「伊勢崎町の社会民衆党支部が中心の文化団体」(『伊勢崎市史・通史編』)としていますが、左派でも共産党の影響を強く受けるナップの指導層を右派の社会民衆党が呼ぶというのは、ちょっと理解に苦しみます。私は、「社会民衆党地方組織の左傾化」という事態が起こった結果として、あるいは、左傾化の過程として、本事件があるという見通しを得ました。伊勢崎町・茂呂村のグループは、茂呂村の小作争議を日本労農党、無産強戸村の須永好の援助を受けて闘い、日本労農党伊勢崎支部を結成していました。ところが、3・15事件のあった秋、日本労農党群馬県連の内紛とも関わって起こった集団脱党事件の中で、支部ぐるみで社会民衆党に移行します。当時の上毛新聞などは、「右翼化」と書き立てていますが、そればかりではないようです。ちょうど、日本労農党群馬県連は『群馬戦線』という啓蒙雑誌の発刊を準備していました。プロレタリア文学の『文芸戦線』を重ねたような名前です。脱党したグループは対抗して『上毛大衆』という啓蒙雑誌を発行します。『群馬戦線』は3冊目が発禁となり、そのまま出なくなりますが、『上毛大衆』は、発禁などもありつつも、2年近く発行されることになります。その間、2回のプロレタリア文学特集も組み、『文芸戦線』と対抗していた『戦旗』を意識しています。中央の文戦派と戦旗派の構図が、この群馬においても再現されるわけです。この『戦旗』を志向した『上毛大衆』に深く伊勢崎・茂呂の社会民衆党グループは関わっていました。他にも左傾化の要因はあるようですが、その一つに、「群馬戦旗派」の形成という視点を設定して、接近できるのではないかと考えています。 |
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2008/12/25 23:21
村山知義は劇作家ですが、あまり知らなかったので、『伊勢崎署占拠・多喜二奪還資料集』の資料出典を間違えたようです。文章は「多喜二の思い出」という題です。初出は、1968年の東京芸術座の『蟹工船』の初演パンフレットに載ったようです。それが、村山没(1977年)後の1983年の多喜二没後50周年に『蟹工船』を再演し、その時のパンフレットに再録されました。私が藤田廣登さんから送っていただいたのは、これでした。東京芸術座のHPの上映記録に出ています。(http://www.tokyogeijutsuza.co.jp/)最近新刊の「小林多喜二と『蟹工船』」(河出書房新社)という本を買ったら、中野重治の多喜二の回想である「心のやさしい田舎者」が載っていました。多喜二とのエピソードを探しながら、叙述するという文章ですが、残念ながら「多喜二奪還事件」は出てきませんでした。このエッセーの第6回にも村山知義のことを書きましたが、それは第6回に任せて、別のことを書きます。東京芸術座の上演記録を見ると、「国定忠治」があります。村山知義の自伝『演劇的自叙伝』を通し読みした時にも、あるなあと思いましたが、そう今は合併して、「国定忠治」の地元も伊勢崎市になりました。もともと佐波郡東村ですから、多喜二奪還事件も佐波郡伊勢崎町・茂呂村と同じ佐波郡でした。こう見ると、意外と村山知義と伊勢崎は深いつながりがあるようです。ただ村山知義は検束場所や警察署を「前橋市」と誤解していますが。伊勢崎市観光協会のHPに忠治ゆかりの説明があります。(http://www.isesaki.ne.jp/kankoukyoukai/rekishi.html#yoroji_kunisada)また、国定忠治 公式ファンクラブのHPが忠治そのものでは詳しそうです。(http://www5.wind.ne.jp/fisherman/ch/chuji/kunisada.htm) |
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2008/12/08 14:36
さて、エッセー「その時、多喜二は……」@をアップします。今回の伊勢崎・多喜二祭では、八田利重(りじゅう)実行委員長の奥様の幸子さんが中心になって、卵とじの茗荷(みょうが)の味噌汁を準備し、故菊池敏清宅の現地見学会の後で、食べたようです。私は、会場の方の準備で食べられませんでした。また、終了後実行委員で味見をしましたが、私は別の用事で寄れませんでした。でも、小さい頃から茗荷の入った料理は食べていたような気がします。ちょっとネットで調べてみました。まず卵とじの茗荷の味噌汁の調理のページです。私も作れそうです。 |
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