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2009/11/06 18:40
第2回伊勢崎・多喜二祭で群馬県文化財研究会の桑原稔会長より7月19日に実施された旧菊池敏清家の古民家調査の概要を報告していただきました。その時のレジメです。写真の左側がレジメの表で、右側上がレジメ裏です。右下はイメージしやすいように添えてみました。次に解説を活字化しました。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[0 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/10/27 15:19
岩波新書の『小林多喜二』を執筆したシカゴ大学のノーマ・フィールド先生が来日なさっており、10月25日午後に多喜二ゆかりの東京散歩を行うとの連絡が元多喜二ライブラリー(旧白樺文学館)の佐藤三郎氏からあり、伊勢崎の「多喜二奪還事件」に興味も持っているというので、急きょ事務局の私も参加させて頂きました。ノーマ先生には資料集を渡せました。左がノーマ・フィールド先生です。まず五反田駅に集合し、「党生活者」の舞台となった藤倉工業跡地を見ました。佐藤氏の説明は詳しいものでした。当時パラシュートや毒ガスマスクを作っていた工場はビル街に変身していますが、光ファイバー等でNTTと深い関係を持ち、跡地の一角にNTTビルがあります。それ以上に、今も自衛隊にパラシュートを供給する軍事企業として繁栄しているそうです。多喜二の視点の確かさを実感できました。写真左側のビルが跡地内にある藤倉グループのビルの一つです。写真右側は新橋駅近くのビルですが、多喜二が東京で活動していた頃の、共産党の非公然事務所になっていた建物だということです。新しいビル群の中に当時そのままの姿を残しています。その後、銀座周辺で多喜二と関わった人々に関連する場所をめぐり、最後に多喜二を虐殺した築地警察署の前に着きました。既に暗くなってしまいました。その時の写真が一番右です。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[1 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/10/12 23:39
10月1日付「新ぐんま」に掲載された伊勢崎・多喜二祭の記事です。「『多喜二奪還事件』の文学的前提」の広告も載せて頂きました。9月27日に日刊赤旗の書評コーナーのレーダーにも載りました。ほぼ2週間1日1冊くらい注文が入りました。20冊くらいが売れました。会のゆうちょ口座は作ってありましたが、郵便振替でという希望が多かったので、至急手続きをして、払込用紙でできるようになりました。注文があった地域は、大阪府・千葉県・埼玉県・北海道・山形県・東京都・秋田県・岩手県・兵庫県・群馬県でした。大阪の人のコメントを今日見ました。450冊販売用で、150冊は売れました。本屋や実行委員に150冊出ています。手元に150冊くらいあります。今回初めて「本」を作り、売っているわけですが、自費出版で本を売るというのは、大変なんだなということを実感しています。私の大学の時の指導教官だったH先生は、いまどき本を売って調査費用なんかを出そうとするのは、方針がおかしいぞと言いながらカンパを寄せてくれました。本当に有り難かったですね。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[2 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/10/02 16:00
「新かながわ」9月20日号に蛎崎澄子さんの書いた「伊勢崎多喜二奪還事件」が載りました。蛎崎さんは、多喜二が逗留した七沢温泉の福元館をつきとめたので有名です。また、伊勢崎の事件が、多喜二の年譜にないことに疑問を持ち、何度も群馬に足を運び、事件がよみがえるのに大きく貢献しました。私も、蛎崎さんの熱意に打たれて、多喜二祭に関わるようになりました。ただ本文中の5段目の「茂呂地区」は「茂呂地区の北千木町」に置き換えて下さい。ここでいう共産党議員は二人です。その一人は、奪還事件で活躍する菊池盛男氏です。50年問題の困難の中で1951年に初の共産党議席を獲得しました。3期12年議席を守りました。もう一人が伊勢崎・多喜二祭実行委員会の代表である八田利重(りじゅう)氏です。1967年に初当選してから、県議に挑戦した時期を除いて、8期31年(合併で任期3年あり)伊勢崎市議をつとめました。 |
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2009/09/19 16:09
第2回伊勢崎・多喜二祭の中で大判紙芝居を実演しました。プログラムの中には、縮小したA4版裏表にしたものを入れました。その後見つかった資料内容も入れて、作り直しましたので、公開します。それで作成日が9月6日以降になっています。 |
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2009/09/12 22:17
実行委員会の事務局長の長谷田直之氏が編集した、「『多喜二奪還事件』の歴史的前提―群馬プロレタリア文学の発見とその展開」が会場の書籍コーナーで飛ぶように売れました。どの辺に特徴があるのか、編集した長谷田氏に聞きました。 |
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2009/09/09 10:19
9月6日群馬県伊勢崎市において、第2回伊勢崎・多喜二祭が開催されました。午前11時より、多喜二が立ち寄り、検束もされた故菊池敏清宅で現地説明会が開かれ、約50人が参加しました。敏清氏の長女の規子さん、三女の利根子さんからの挨拶、八田利重代表の説明に続き、群馬県文化財研究会会長の桑原稔氏から7月19日に行った旧菊池敏清家調査の概要が報告され、質疑応答も行われました。参加者は多喜二が茶話会で語った時に背にしたという床柱に見入っていました。すぐ近くにある共産党伊勢崎佐波地区委員会事務所の会議室を借りて、実行委員会では希望者に茗荷の卵入り味噌汁の試食会を行いました。 |
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2009/09/01 23:13
ブログ21世紀の小林多喜二の手紙で、当伊勢崎・多喜二祭を紹介して頂いた上に、貴重なアドバイスを頂き、ありがとうございました。 |
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2009/08/30 22:52
第2回伊勢崎多喜二祭を前に、「多喜二奪還」のぼり旗がきました。今日やっとポールに付けられたのが、夜だったので、部屋の中です。3本来たので、外ならもっと感じがいいと思います。現地説明会の時に菊池敏清宅の目印になると思います。 |
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2009/08/23 23:55
とうとう入稿というか、印刷は自分でして、表紙印刷と製本をしてもうらうための締切がやってきて、2回も延ばしてもらい、やっとこの間、持っていけました。題は「『多喜二奪還事件』の文学的前提−群馬プロレタリア文学の発見とその展開」です。全体の目次は、解説編、資料編、特別編で構成しました。解説編の目次は、「はじめに……本資料集の目的、1講演会グループについて、2『群馬戦線』と『上毛大衆』の概要、3『群馬戦線』と菊池光好、4『上毛大衆』同人と「多喜二奪還事件」、5『上毛大衆』の散文について、6『上毛大衆』の韻文について、7『宣戦』掲載の文芸評論をめぐって、8『全線』刊行の意義、まとめにかえて……「文芸講演会」開催の諸条件」となっています。資料編は、『群馬戦線』の文芸欄、『上毛大衆』の文芸欄、『宣戦』の文芸欄、詩歌集『全線』となっています。特別編は1菊池敏清の文芸活動、2伊藤信吉と「多喜二奪還事件」、3二つの「飴玉闘争」と「奪還事件」です。プロレタリア文学運動の文戦派対戦旗派のような展開が群馬でもあったのです。そこには、地方のプロレタリア文学運動が躍動感をもって展開しています。そういう運動の中心にいたグループがナップ作家を呼んだのです。無産政党的には、右派の社会民衆党に属していましたが、社会民衆党左派と呼んでいいくらいでした。共産党に限りなく接近していきます。9月6日発売で、税別1000円です。 |
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2009/08/13 00:17
8月10日の上毛新聞に第2回伊勢崎・多喜二祭が報道されました。前売券もでき、希望者はお申し付けください。 |
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2009/08/08 15:51
先月、国会図書館に行ってきました。当時のプロレタリア諸団体の機関紙・誌を読んでみました。近くでは、『戦旗』の復刻版は、群馬大学図書館にあります。『文芸戦線』前期も群大にありました。『文芸戦線』後期は群馬県立女子大学の図書館にありました。しかし、ナップの機関誌の『戦旗』が独立してから発行された、ナップの機関誌『ナップ』の復刻版は県内にはないようでした。この機関誌『ナップ』の編集実務を、群馬の伊藤信吉がやっていたのに、どういうことだろうか、と思いましたが、東京から帰ってきて調べたらちゃんと土屋文明記念館にはありました。ここは初代館長が伊藤信吉でした。ともかく、「多喜二奪還事件」の余波を確認しました。この頃の編集長は中野重治だったので、全く中野重治の記述と思い込んで、伊勢崎・多喜二祭ニュースに書いてしまいました。中野重治全集を確認しましたところ、それによって、執筆者が伊藤信吉であることが判明しました。伊藤信吉は回想で、中野重治からメーセッジを預かると言われ、託したと述べていますが、思ったより、文芸講演会の開催に伊藤信吉の関わりがあった可能性が出てきました。また、伊藤信吉だけが文芸講演会にやって来た女優名に三好久子の他に清洲スミ子を挙げていますが、この信憑性も高めてもよいかも知れません。ともかく、9月13日のブルジョア新聞にナップ幹部が拳銃を購入し、襲撃を準備という突拍子もない記事が載ったわけです。東京朝日新聞にはありませんでしたが、東京日々新聞には載っていました。それが写真左側です。とんでもないことです。これを伊藤信吉は「事実は作家同盟員の三人が無理由に検束され即時戻って来ただけであって、ピストルのピの字も出はしなかった。」「芸術そのものが労働者階級の文化戦線における武器となることだ。」と強く批判しています。全くその通りです。 |
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2009/07/20 15:49
昨日の19日に、群馬県文化財研究会の桑原稔会長を含めた6名の調査グループが菊池敏清宅の調査を行いました。12日の庭の草取りをしたので、かなりさっぱりしていました。気温は、伊勢崎は全国的にも暑く、先日は37度を記録した日もありました。そこまでは暑くなりませんでしたが、30度は超えた上に湿度が高く、かなり作業をするには根気が必要だったと思います。敏清さんの娘さんの規子さんと利根子さんが来てくれ、会からは八田利重会長と相談役の藤田廣登さん、それから事務局の私が対応しました。9時から4時頃迄調査は行われました。桑原先生の説明では、享保年間に築造されたようですが、現在の家屋状態の基礎は、明治10年前後に行われた大改築によるということです。最初は藁葺きでしたが、明治の大改築で、瓦葺きになるとともに、天井裏に櫓(やぐら)が組まれ、養蚕農家の典型的な形態になったそうです。これは「近代和風建築」と呼ばれ、近年注目されているそうです。建築調査とは別に藤田さんと私は、書籍等の調査を若干させて頂きました。その結果、敏清さんの小説や詩の原稿が見つかりました。また、ちょうど「多喜二奪還事件」の昭和6年前後の発表小説一覧表もみつかりました。敏清さんがナップ会員であった理由や新聞で「文芸家」と呼ばれた理由もはっきりしました。写真の上段は調査の様子で下段は見つかった原稿などです。 |
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2009/07/12 21:12
「松村文一郎」って誰?というでしょう。写真に出したのは、彼が『上毛大衆』の昭和3年12月創刊号に載せた詩「莨の煙り」(たばこのけむり)です。どうですか?なぜ詩かというと、今年の伊勢崎・多喜二祭に向けて、『資料集』を準備しています。土井先生の講演なので、群馬のプロレタリア文学について、調べています。実は、文芸講演会を準備したグループは、昭和3年から5年にかけて、群馬の労働者・農民の文学運動を作っていたのです。松村文一郎さんは、『上毛大衆』の同人ではありませんでしたが、近い位置にいたようです。無産強戸村で有名な須永好の日記が刊行されていますが、その昭和4年5月19日の記事に松村文一郎さんが登場します。「朝日新聞伊勢崎通信員松村文一郎君来訪し、大衆党本部の内紛について僕の意見を訊く。そして僕の写真を撮り、尚、菊池光好君に六回(一回、十五字、五十行)出しの強戸村記事を求めて帰る。」とあります。須永好の日本労農党は前年の12月に日本農民党や無産大衆党等と合同し、日本大衆党になっていました。「内紛」とは、いわゆる清党問題といわれているものかと思います。ここでは「松山文一郎」が「朝日新聞」の記者、それも「伊勢崎通信員」であることに注目したいと思います。彼は『上毛大衆』に他にも記事を寄せています。昭和4年11月号に随筆「秋が来たけれど」を「松村文一路」名で載せています。なぜ随筆を書いたのか、その理由を「顔をみるたび『何か書け』と云ふ本誌の小林、吉田両氏に『今月こそ何か書かせて貰ひます』と安受合ひをしながら一年近く虚を云ひ通して来た私である」が「そうそう嘘ばかり云へなくなり」書いたと述べています。「小林、吉田両氏」というのは、「奪還事件」で多喜二とともに検束された「小林邦作」と検束を逃れ、文芸講演会の決行を指導した「吉田庄蔵」のことです。また、おもしろいのは、自分の生活振りを叙述していることです。「八時遠冷めした下宿の飯を一人で喰って形の如く警察に行く、で、死んだ生きた盗んだ無銭飲食したやれ人妻が駈落ちしたの役場は役場で納税がどうの織物組合では景気が良いの悪いの織がどうのと書なぐり學佼や諸官署の催ごとなど掻集め十一時半の汽車にその原稿を積んで晝飯となる。午後も同じ路を形の如く廻って電話で記事を送って夜るとなるのである、これが新聞記者としての私の日科である。」とあります。これだけでも地方新聞記者の一日としておもしろいですが、「伊勢崎に来てからモウ一年になる」とあるのが重要です。これで、『須永好日記』の「朝日新聞伊勢崎通信員」というのが、本人の筆で確認されました。彼は昭和3年秋に伊勢崎通信員として伊勢崎に赴任したのです。もし彼が昭和6年9月まで「伊勢崎通信員」でいたら、東京朝日新聞関係の「文芸講演会」の予告や「多喜二奪還事件」の報道、「ナップ系文士 奪還で乱闘」の【伊勢崎電話】の送信者である可能性が出てきました。 |
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2009/07/04 21:24
1984年に発行された『前橋市史・通史編・近現代(下)』の「第八編近現代下」の「第六章思想・事件」の「第二節社会主義のあゆみ」の「(9)社会主義者の弾圧続く」の第3項目に「伊勢崎文芸講演会事件」として取り上げられていました。応援に来た人の多くに前橋の人がいました。弁護士で、事件で交渉の中心であった石井繁丸さんは、戦後社会党の代議士になった後、前橋市長になっています。また、佐田一郎さんは、家業の佐田建設を継いで、県内大手のゼネコンに成長させ、自民党から代議士になりました。現在孫の玄一郎が国会にいると思います。戦後共産党の県委員長になった堤源寿さんや坂内一登司さんも前橋です。トラックで駆けつけた遠藤可満(かまん)さんも前橋です。終戦直後の県議選で社会党から当選し、その後無所属を経過し、共産党に入党し、初の共産党県議団を構成しました。奪還事件の時も県議選の最中でしたが、その時立候補していた尾池真弓さんも遠藤さんと同じように、その共産党県議団の一員になりました。遠藤さんが「大胡」の仲間と応援に駆けつけたと言ってますが、それは岩丸波太郎さんのことだろうと推測されます。菊池(小林)邦作さん、尾池真弓さん、岩丸波太郎さんは「群馬青年共産党事件」の時からの仲間でした。この3人と遠藤可満の4人は共同行動をしています。『伊勢崎市史』の方は、『群馬戦線』と『上毛大衆』の記述を探していたら、「出版文化と文学」という項目で、来伊した文学者という文脈で記述されていました。多喜二たちは共栄館には行けなかったわけですが、最近読んだもので別の共栄館の講演会を知りました。大正12年に出された日本のアナーキズム系の詩誌『赤と黒』発刊記念連続講演を伊勢崎の共栄館でしていました。壺井繁治や地元の萩原恭次郎など10人以上の講演があったようです。 |
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2009/06/27 15:28
ポスターも校正が終わり、来週すぐできあがってくる気配です。チラシ(白黒)は、本日午前中に印刷しました。昨年は、伊勢崎市の後援が取れたのですが、今年は群馬県と地元新聞の上毛新聞社にも後援申請をしました。その結果、申請が許可され、「後援、伊勢崎市・群馬県・上毛新聞社」となりました。チラシの表と裏を並べて表示します。印刷が必要な場合は、PDFで表示・印刷してください。pdfはhttp://www.takijidakkan.com/2009chirashi2.pdf でダウンロードできると思います。チラシ(白黒)の郵送は、以下のメールにお申し込みください。 haseda@azuma-toshin.co.jp (長谷田直之まで) (自分でpdfをダウンロードして表示したら、形がやや崩れました。すいません。) |
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2009/06/11 00:13
今年の伊勢崎・多喜二祭のポスターがほぼできつつあります。そのまま小さくしてチラシの表にします。逆かもしれません。チラシの表を作って、そのまま拡大してポスターにするのかもしれません。去年、伊勢崎市に後援していただいたので、今年も後援申請を出してあります。最近、実行委員会を「いせさき明治館」(市の重要文化財)という市の文化施設でやっています。市の文化観光課に行って、借りる手続きをして、当日鍵を借りにいくのですが、実行委員会の会議での使用は、使用料金が減免になりました。(http://www.isesaki.ne.jp/kankoukyoukai/meijikan.html) |
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2009/05/29 14:47
実行委員会で、今年の伊勢崎・多喜二祭をどう迎えるか、どう創るか論議してきました。「多喜二奪還事件」そのものの追求は、もちろん大事だが、多喜二祭という多喜二そのものに親しむことも大事だと意見が大勢となり、満場一致で詩人の土井大助さんを講演の第一候補者にさせていただきました。この度、快く講演を引き受けてくださった土井さんに感謝申し上げます。土井さんの主要著作を次に列挙します。 |
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2009/05/14 15:35
ちょっと遅れてしまいましたが、多喜二が休憩し、茶話会で講演し、文芸講演会に出かける前に検束された旧菊池敏清宅の、春の写真を頂きました。桜がきれいですね。写真は、近くに住んでいる石川さんの撮影です。随筆『柿』の中で、菊池(小林)邦作は、「多喜二が座敷の床柱を背にして、あぐらを掻き火のない大きな火鉢を前にして腕組みをして話をつづける姿である。その顔は赤旗の三、一五記念号などによく出てくるあの写真の顔そっくりで、年よりずっとふけていて、当時とても二十八才の青年には見えなかった。私が蚕種製造業小林邦作という名刺を差出し、自己紹介すると、多喜二は、興味深そうに私の名刺に見入っていたが、やがて私の顔を見返し、ニッコリ笑って名刺を袂に入れた。その時『僕は名刺をもっていないので−』と多喜二は云った。」と回想していますが、この多喜二が語った家が、百数十年の風雪に耐えて現存しています。私たちは、できれば残したいと考えています。この度、群馬県内の古民家調査を多数手がけている研究会の会員の方から、調査対象として検討する可能性のあることを打診されました。この方が、昨年の伊勢崎・多喜二祭に参加して下さり、旧菊池敏清宅を見てのことです。今後の展開が楽しみです。菊池敏清の戦前の活動については、まだまだ未解明の部分が残されています。東京帝大2年で帰郷し、ナップ会員として、『戦旗』配布網を作り上げます。彼は、茂呂の菊地家の本家の嫡男であり、およそ二十町歩の地主の地位にいたわけですが、昭和6年の「多喜二奪還事件」の後の、昭和7年の「反建国祭事件」では、主導的役割を果たしました。また、本家を相続した後の昭和12年には、小作人に農地の無償解放を菊池盛男の父幸八とともに行っています。終戦直後には、民論社を興し、雑誌「民論」をはじめ、民主的書籍の刊行を行い、その後「伊勢崎民主新聞」を長年に渡って発行し続けました。 |
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2009/04/26 21:31
久々の記事です。先日、多喜二奪還事件の当事者の一人である菊池盛男さんの弟の正(ただし)さんから再度お話しを伺いました。前回の話は既に1月2日のブログに載せました。まず再録します。「事件当時、小学校の3年生か4年生だったそうですが、多喜二たちが早めの夕飯を食べに来た時に、声をかけられたそうです。多喜二から『大きくなったら何になるのかな?』と聞かれ、『弁護士になりたい。』と答えたのをよく覚えているそうです。正さんは87歳ですが、ご壮健です。既に兄の盛男さんが検束された経験があり、裁判の関係で弁護士が家に出入りしていたので、『弁護士』という職業を知っていたそうです。」今回さらに、多喜二は質問したときに頭を撫でながら聞いたということが判りました。また、正さんは8人兄弟の末っ子で、当時大沢一六弁護士夫妻の養子になるという話が進行していたそうです。それもあり、弁護士ということを意識したそうです。また、お姉さんたちが白い布を切って、色を塗り、上り旗を急に作り、そこに近所の仲間、運動の支持者が集まり、ざわざわして、警察に捕まった仲間を助けにいくと出かけていったのを覚えているそうです。また、事件当事者の菊池(小林)邦作さんの長男である進さんからもお話しを聞けました。多喜二奪還事件は進さんが小学校2年生の時でした。当時小林家は忠桑館という蚕の種屋をしていて、その番頭さんがどこにいくにも連れていってくれたそうです。その日も自転車の後ろに乗り、ついたのが共栄館だったのです。会場は満員で、立ち見の人が壁際にあふれていたそうです。あるおじさんが通路を走って壇上に駆け上がりみんなに訴え、弁士中止を受けたが、やめなかったら会場の私服が四、五人駆け上がって取り押さえたそうです。そして、聴衆が総立ちになり、背が足りず何も見えなくなったそうです。後年、共栄館の横を通るたびに、その時の沸き上がるような熱気を思い出していたそうです。今思うと、そのおじさんが盛男さんだったわけです。父の邦作さんと盛男さんは従兄弟ですが、父母のいなくなった邦作さんは、婿養子に行くまで盛男さんの家で育てられました。写真は、小林邦作時代の家族の写真です。奪還事件直後のもので、左から邦作さん、進さん、悟さん、實さん、まちさんとなります。 |
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